まさか隣の地区は違う国だった!?

2022-07-14

さて飯田城下町サポーターとなったので、少々、城下町サポーターの活動を報告しつつ歴史を面白さを伝えていけたらと思いますので、この前、ご教授いただいて、驚いた事があったので報告させてもらいますね。

皆さんは、ご自分が住んでいる地域もしくは故郷って何藩でどのくらいの規模だったとかって興味を持った事はありますか?

実は恥ずかしながら私は詳細を知らなかったんです。

ですが、城下町サポーターとなって、先生から、ご教授いただきまして、すんごい驚いた事があったんです・・・・・

そもそも飯田藩は、どのくらいの規模の藩だったのか。明治初年の資料によると飯田藩は一町二十三村だったそうです。

この一町というのは城下町のことだそうです。なので城下町が1つと23の村が飯田藩の治める領地だったという事です。

で、一六四が驚いた事とは、一六四の地元は飯田藩なんですが、すぐ隣の地域は違う藩だったんです!!すぐ隣の地域は、なんと尾張藩だったり美濃高須藩だったんです!!

「えー中学の同級生が住んでた地域って昔は違う藩だったの~」ってなりました(笑)

当時の感覚からしますと国が違うみたいな感じだったんです!!おそらくですよ、そういう区切りになる前は、繋がっていた(1つの国)と思われるので親戚なんかも住んでいたと思われる地域が、違う国になっちゃうんですよ!

藩が違うという事は通貨が違っていたり物価が違っていたり様々な決まり事も違う、また文化が違うようになったりします。

これは、なかなかですよ。ちなみに飯田藩の周りには、どんな藩の領地があったかと言いますと、幕府領、旗本領、陸奥白河藩、美濃高須藩、尾張藩です。

この中の陸奥白河藩は老中・阿部家の藩だそうです。確かではないんですが阿部正弘に因んだ物があるんです。でも何で、こんな飛び地に、そんな東北の遠い藩の領地がという事になるんですが・・・・

それは、この伊那という地域は災害が少なく穀物が良く採れる地域だったそうで、なので災害が多く被害が出やすい関東・東北の偉いかたの藩は、こういった飛び地に領地をもらい有事の際に困らないようにしていたんだそうです。また、この飯田は関東への玄関口であり様々な地域から入れる入口であり、また出口だったので幕府の息のかかった藩が領地をもっらたそうです。

どうです、自分の住んでいる地域もしくは故郷は、どんな藩だったのか、周りに、どんな藩があったのか、そして、それを現代の地図なんかに置き換えると驚きの歴史が見えてくるかもしれませんよ!!

それもまた歴史の面白さだと一六四は思うんです!!是非、お勧めします!!

また次回も城下町サポーターの活動を通じて歴史の面白さを伝えれたらと思いますので次回も宜しくです!!♪

そうそう、久々に「城跡・歴史ぶっちゃけトーク」を行います。

7月23日(土)AM10:00~を予定してます。良かったら参加してみてくださいね。飯田城下町サポーターの活動の裏側なんかも話しちゃうかもしれませんよ!!

参加は無料なので、お気軽に参加してみてください。

詳細は、後日、新着情報で告知させてもらいます。

それでは、また次回も読んでくださいね。